週刊少年チャンピオン2016年51号

佐藤タカヒロ『鮫島、最後の十五日』/白水対天鳳。鮫島サイドとは、物語における主人公と敵方の役割を逆転させてるのか。
板垣恵介刃牙道』/この作品における人物への称揚とは、闘いを通した絆の証である、と。武蔵にそれがないのは新キャラだから、ではなくてバトル少年漫画の地平に立ててなかったってことよね、やっぱり。
小沢としお『Gメン』/レディース登場。主人公をカワイイと見るか。
福地カミオ『猫神じゃらし!』/集団の会話劇、と言えるかな。一つ一つのコマにおさめる、場面の切り取り方も見所。実際、野良にとっての冬はね…。なにげにゆきちの言葉を沙耶が知るのは初か。父ちゃんいるのね。
●瀬口忍『囚人リク』/お前かよ。原田は…。
水島新司ドカベン ドリームトーナメント編』/雨乞い。
●盆ノ木至『吸血鬼すぐ死ぬ』/フェロモン出すのも生態としては理にかなってるよな、たぶん。
板垣巴留BEASTARS』/シカ部長の美形な顔は売りになる、性格に難ありでも可愛い小動物として見られる、と生態がちゃんと(?)キャラ属性としても認識される社会。「いかにもメス受けする」だってよ、言われてんな萌えオタ(そういう事じゃない、多分)。で、その上でそこに縛られずに、他者への向き合い方を模索する主人公と部長であり、互いにその姿勢を認め合うと。部長のモノローグに『真・異種格闘大戦』をダブらせたり。新聞部と比較すると、演劇部はちゃんと同程度の体長の生物で揃えてるわけか。
●山田胡瓜『AIの遺電子』/修理の放棄。障害に対する健常者のエゴ丸出しだな、と読まれかねない危険性は、まず前提として指摘しておく。その上で、人間と異なるヒューマノイドの“特権”たる感傷という意味で、これは私にとってSF性である。では作者は、これをヒトモドキの感動ポルノとしてではなく、ヒューマノイドの異文化として自覚的に提示できているのか、あるいはあえてグレーゾーンを狙っているのか。正直その点は、これまでの芸風からして個人的に首肯しづらい。うーん。
●掛丸翔『少年ラケット』/あの日から1か月も経ってない、作中では。でも連載期間はすでに1年半、と丁寧に進められている作品だよな。そこでヒロインの影なのか。
増田英二『実は私は』/迫る終局をよそに、穏やかな日常の光景。ギャグシーンも関係性の変化、友情を背景にしたものなんだな。
藤田勇利亜『ミドリノユーグレ』/最終ページが第1話冒頭の光景、ということはここまで既定路線なんだろうか。アシスタント募集は続けるのね。
石黒正数木曜日のフルット』/まんが極道(違う)。元秋田書店社員のコミックビーム編集長が新人社員に、原稿は何があっても手放すな、と教えたらデジタル入稿だったというね。


  • 新連載は殺し戻り(?)の人か。

●伊藤智義・松島幸太郎『永遠の一手特別編 2030年、異次元サイバースペース』/読み切り後編。
(※以下、批判一辺倒につき読まない事を推奨。)
あのさー、本連載もこれも手垢つきまくったベタなガジェットやるのは別にいいのよ、文脈しだいだから、作品としては。でも結局やることが、超人キャラ同士の高等遊戯スゲー(ディティール欠落してるけど雰囲気で感情移入(!)ヨロシク)というマジで設定ガジェットでしかありえない時、それがどれだけの題材を状況を周縁を外部を内面を過程を過去を物語を生身をリアルを現実の存在を踏みにじり侮蔑しうるか、“フィクション”に甘んじた優生思想垂れ流し天然ぶりでしかないか、ての判別つきません?いや、それをやるからには脊髄萌え反射の黄色い声しか期待しない、てのならまだ理解できる。その素直さ健全さ、まあ単細胞ぶりだが覚悟の上でやられたなら文句はお門違いだわな、戦略戦略ご立派ご立派。でもさ、これわかってやってるんだもん。深読み(笑)考察(苦笑)読み解き(失笑)標準装備、作り手側が手前の無能さから提示できない物語性もガジェットちらつかせりゃ勝手に妄想キメてくれる読者相手、みらいでしょうぎやえーあいなんてむつかしいことかいてあってすごい、レベルの反応をはなから当
て込んでんだもん、それこそ子供騙しってか。クリシェの外づらに逃げ込めば己の頭いいでしょ、な体面は保持できる、未来やらシミュレーションやらアリバイ念仏唱えてりゃよし。大月隆寛言うところの「研究という名の神」にこそ魅せられた、延々“神話”の教義の再解釈と連呼にかまびすしい界隈、それで手前の正しさが保持できると思ってる、て意味では見事に作者の合わせ鏡脳な読者をこそ当て込んだ作品。だからあたしゃ一人一派の異教徒なんだっての。